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茨城県桜川市真壁町

真壁の名僧

法身性西禅師(ほっしんしょうざいぜんじ)

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 法身(法心 ほっしん)性西禅師は、松島瑞巌寺の前身円福治を中興し、町内桜井の伝承寺を改ざんした著名な禅僧です。
 俗名を平四郎と呼び、文治5年(1189)、明野町猫島の高松家の生まれと伝え、23才で真壁城主に仕えました。ある年雪見の宴で、城主時幹(ときもと)の下駄を懐で温めながら待っていたところ、尻の下に敷いていたと誤解され下駄で額を割られ、これを転機に45才の時に高野山で出家、5年後に中国へ渡り浙江省(せっこうしょう)の径山(ぎんざん)の寺で無準師範(ぶじゅんしはん)に学び、長期に及ぶ座禅苦行の末に悟りを開き、9年後に帰国しました。
 その後、鎌倉建長寺に滞在中、先の執権北条の時頼の願いを受け、70才を過ぎて松島に赴き、天台宗延福治を禅宗円福寺に改めました。これが後の瑞巌寺となり、松尾芭蕉も「奥の細道」に「真壁の平四郎出家して入唐帰朝(にゅうとうきちょう)の後開山す」と記しています。
 法身は80才を目前にして故郷に戻り、真壁山尾の光明寺で3代城主時幹に再会、時幹が過去の非礼を詫び、文永5年(1268)、法身のため伝正寺の前身照明寺を開きました。この物語は小説「下駄の恩」で有名になり、現在でも講談で親しまれています。また、85才で一喝を残して大往生も、禅僧の最期を飾る法話として語り継がれてきました。

どっこい真壁の伝承寺

伝承寺を語る時、必ず話題になるのが「どっこい真壁の伝承寺」の句です。その由来は、法身の照明寺、後の伝承寺改ざんの偈(げ)(漢詩)
  「一上径山弄風光 帰来応天目道場法身覚了無一物 咄是真壁平四郎」
   一たび径山に上りて風光を弄す  帰り来りて天目道場に応ず  法身覚了すれば無一物  
   咄是真壁の平四郎  が、もとになったと言われます。
即ち悟りを開いた法身について、「咄是真壁平四郎(とつこれまべのへいしろう)」と呼ぶ最後の句がそれです。特に江戸時代中期以降は、一般庶民の寺社参詣が盛んになり、伝承寺を訪れた多くの信者達も、この結句を唱えながら石段を登ったものと思われます。そしていつの間にか「咄是(とつこれ)」が「どっこい」に、「平四郎」が「伝承寺」に読み替えられ、定着しっと考えられています。

 

真仏上人(しんぶつしょうにん)

 真仏上人は、鎌倉時代の中期、浄土真宗の開祖親鸞聖人(かいそしんらんしょうにん)の教えを受け、全国各地の人々に念仏信仰を広めるのに貢献した門徒筆頭うの直弟子です。
 承元3年(1209)、北椎尾堀の内の椎尾城内に、城主国春の長男として生まれ、俗名を椎尾弥三郎春時と名乗りました。17才で家督を継ぎましたが、当時親鸞が関東教化のため笠間の稲田草庵に止住しており、真仏はその徳を慕い、弟国綱に城を譲って出家、聖人から直々の教えを受けました。
 やがて親鸞が京都に帰った後を継ぎ、下野国高田(二宮町)の専修寺2世として関東門徒を結集、弟子の顕智とともに聖人の教えを各地に広めました。結城市の称名寺、大和村の真像寺を開き、さらに東海、北陸地方にまで教えを進め、現在でも数多くの浄土真宗寺院が、親鸞に次ぎ真仏を2世と仰いでいます。しかし、正嘉2年(1258)病のため聖人に先立ち、惜しまれながら50年の生涯を閉じました。なお、真仏は生前に親鸞聖人から「しのふの御房(椎尾の御房)」と親しみ呼ばれ、その筆跡も師に似て、現在国宝である親鸞筆の「三帖和讃」のうち、2帖の本文は真仏筆といわれています。また、親鸞の筆になる法然の言行録、「西方指南抄(さいほうしなんしょう)」(国宝)6巻を直に授けられたことは、親鸞から真仏への法統継承を示す貴重な証となっています。

真仏の生誕伝承と後日談

 真物の生誕には、父(国春)と母(大内の前)が、椎尾山の十一面観世音に篤く祈願し、その仏恩により授けられたとの伝承があります。
 昭和初期のこと、真仏の甥、椎尾国貞(円順房)の子孫であり、増上寺(東京都港区)の管主であった椎尾弁匡師に、真仏ゆかりの仏像が、椎尾山中に鎮座されているとの夢のお告げがありました。この知らせを受け、寺では多数の人でを集めて捜した結果、本堂東の洞穴から、奇跡的に石仏の十一面観世音が発見されました。丈約50センチと小型ですが、柔和な顔立ちの好仏像で、現在は本堂内陣に安置されています。なお真仏生誕以来八百年近い時を経た今日でも、ゆかりある石仏発見の軌跡に、地元の人々は法縁の深さを語り会うことがあります。

本孝法印(ほんこうほういん)

 本孝法印は、江戸時代の中期に「自他の念仏が融通し合い功徳(くどく)あり」と説く融通念仏(ゆうずうねんぶつ)の布教を通し、椎尾山薬王院の再建に続き、善光寺の大本堂再興に願主として貢献した念仏僧です。
 当時の羽鳥村山口氏の出で、幼い頃から僧侶への道を志し、江戸下谷の養玉院で修行、後に山田村最勝王寺38世住職となりました。さらに椎尾山薬王院の学頭を兼務し、火災後荒廃していた堂塔再建に尽力、約20年に及ぶ融通念仏の布教を通して資金を募り、薬師堂、仁王門の再建を果たしました。
 その後、庶民信仰の本山と仰がれた善光寺大勧進の71世住職に栄進、やはり火災後の諸堂再建を担っての赴任となりました。この時も融通念仏布教を柱に、江戸、京都、大阪で出開帳を行い、折から幕府による念仏勧進禁止令の中で、本孝が入寺の際に携行した、天海大僧正の墨付きの「融通念仏弘通朱印状(ゆうずうねんぶつぐつうしゅいんじょう)」に支えられて多額の資金を調達し、大本堂は無事着工されました。しかし、1年後の元禄8年(1695)9月、惜しくも完成を見届けることなく62才で亡くなりました。
 現在、国宝指定の大本堂は本孝没後12年を経て落成しましたが、その遺徳を讃え、郷土の最勝王子、薬王院同様、善光寺も本孝を中興の祖と仰いでいます。また5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院の信心を受けるなど徳の高い念仏僧であり、後に大僧都の位を送られました。

※本孝の融通念仏を語る古碑

 本孝の融通念布教については、東山田最勝王寺の寛文十二年(1672)千日念仏塔と、同年代の地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の他、本孝銘を刻む次の念仏塔が、その実際を現在に伝えています。
 羽鳥大日山(大光院跡)の寛文五年(1665)十五夜念仏塔には、阿弥陀如来の縁日十五夜に、村中百五十五名が参集しての、念仏講の様子を刻んでいます。また椎尾山の貞享二年(1685)千日円融念仏塔では、千日にわたる信者の念仏口称が成就したことと、地元酒寄村から始まり、真壁、筑波郡、を中心に、百か町村以上の広範囲の地域に本孝が勧進し、多くの念仏講中と結ばれた事実を物語るものがあります。
真壁歴史民族資料館パンフレットより